脱中華の東南アジア史⑦モンゴル編

~史上初、外洋航海したモンゴルの大艦隊~

<人類史上初の「外洋航海」を実施した大艦隊>

実は、この南宋攻略の最中に行われたのが、第一次日本遠征(文永の役1274年)だった。このとき日本遠征に参加したのは、元軍・漢軍25000人と高麗軍8000人、大小900艘の船だったが、このうち大型の軍船300艘は、南宋攻略のために使う海上用艦艇として高麗に建造させたものだった。

そして南宋接収後に、旧南宋軍の大艦隊をもって大渡海作戦を行ったのが第2次日本遠征(弘安の役1281年)であり、ベトナムやチャンパへの遠征(1281年、84年、87年)、ジャワ島遠征(92年)だった。これらの遠征を前に、高麗には再び軍船の建造と船を作るための木材の提供が命じられた。そのため、朝鮮半島の山はほとんどはげ山になったともいわれる。

第2次日本遠征に参加した兵力は、元・高麗軍を主力とした東路軍4万と軍船900艘、それに旧南宋軍を主力とした「江南軍」10万と軍船3500艘だった。このときの江南軍は、人類史上で最初で最大の「外洋航海」をした大艦隊だった。

しかし、弘安の役で実際に戦ったのは高麗軍の4~5000とモンゴル・キタン・女真・漢族混成軍6000の、合計でも1万内外の戦力だけで、江南軍の兵10万は到着が遅れたうえに実際には戦うことなく嵐に遭遇して壊滅、生き残って帰還したのはわずかな将兵だけだった。しかも彼らは、もともと戦闘集団ではなく入植を目的にした移民船団だった、と言われる。

(引用)「厳密な意味では、彼らは兵士ではなかった。どう調べても、彼らがしかるべき武装をしていたとは思えない。これらの人々は、募集に応じた士卒たちであった。もと南宋の政府軍だった人々から、希望を募ったのである。・・・彼らが携帯したのは、どうやら武器ではなく、農器具であったらしい。つまり、10万の大部分は、入植のための「移民」に近かった。慶元(泉州)を出発した大艦隊は、事実上、「移民船団」であったといえるかもしれない。・・・主に「移民」たちが乗り組んだ中小艦船と旧来の艦船は平戸沖などに待機するうち、嵐で覆没してしまった。「海外移民」は一面において「海外棄民」であった。(杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.129-135)

南宋はもともと金で兵士を募集する「募兵」という形をとっていたため、所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかったといわれる。こうした旧南宋軍の兵をそのまま新たな雇用先として受け入れることはモンゴル軍には大きな負担となった。また軍を解散させると職を失った大量の元兵士が街にあふれ社会不安の要因となる恐れもあった。征服した現地兵を次の戦争に投入することはモンゴル帝国では当初からよく行われてきたことだった。また次のような指摘もある。

(引用)「“民を養う”のにもっとも手っ取り早い方法は戦争である。・・・戦争に勝てば、個々の兵士が手に入れた捕虜やその他の戦利品はそのまま私有することができる。・・・だから征服すべき相手があって戦争が繰り返されるあいだは臣民も満足するが、元の世祖フビライ・ハーンのように、南宋を征服して海に達してしまうと、はたと困ることになる。何度失敗しても、日本、ベトナム、チャンパー、ビルマ、ジャワに対する制服計画をすてなかった理由の一つは、これであった。」(『岡田英弘著作集Ⅱ「世界史とは何か」』p170)。

その東南アジアに対してモンゴル帝国がしるした足跡、インパクトを考察してみたい。

<ベトナム・チャンパ・ジャワへの遠征>

モンゴル帝国(大元ウルス)は前後3度にわたりベトナムに遠征した。1257年の最初の遠征は、南側から南宋を包囲しようという作戦の一環でおこなわれたものだった。モンゴル軍は雲南の大理国を滅ぼしたあと、1257年に雲南からベトナム北部に進出、ベトナムの陳朝に使者を送って、モンゴルへの従属を求めた。しかし陳朝はこれに返事を出さなかったため、モンゴル軍は首都の昇龍(現在のハノイ)を攻撃。この時、モンゴル軍にベトナムを征服する意思はなく、すぐに撤退した。

1279年、南宋を滅ぼすと、クビライの元朝は南海諸国との通商に乗り出し、泉州などに市舶司を置き、使節をチャンパ(占城)、ジャワ、スマトラ、インドに派遣して入貢を促した。1281年、元はチャンパに貿易事務を行う出先機関「行中書省」をおいて南方諸国を統括しようとしたが、チャンパ王がこれを拒否したため、討伐軍を派遣し国都ヴィジャヤを攻めた。しかし、チャンパは激しく抵抗し苦戦を強いられた。1284年、元は再びチャンパに大軍を送ったが、この時は暴風に遭い大損害を被った。海路からのチャンパ侵攻に失敗した元軍は、ベトナム陳朝の領土を通過して陸路よりチャンパを攻撃しようとした。元軍はチャンパを討つために陳朝にも出兵を要求したが、陳朝はこれを拒否した。元軍はさらに、ベトナム通過の途上で食料の供給を要求したが、元軍の過大な徴発に不満を抱いていた陳朝は、逆に元軍に反抗して軍事行動を起こした。かくして1285年1月、ベトナムに対する元軍の攻撃が開始され、首都の昇龍は元軍に占領された。ベトナム兵はジャングルや山岳地帯でゲリラ戦を展開する一方、官民による「清野」(財産や食糧を隠す)作戦で元軍の食糧調達を妨げた。元軍は不慣れな南方の気候と疫病によって苦戦を強いられ、次第に北に後退。ベトナム軍は昇龍を奪還した後、さらに追撃戦を展開し勝利を収めた。

再度の元軍の侵入に備えて、ベトナムは兵士の訓練に励み、武器と艦船の増産を行った。元軍が三度目のベトナム侵攻を開始したのは一年半後の1287年末。過去の戦いで食料確保に苦しんだ失敗を踏まえ、今度は艦船による食糧の輸送体勢を整えたが、その補給艦隊がベトナムからの攻撃を受けた。食料の確保と拠点の防衛に失敗した元軍は撤退を開始するが、待ち伏せ攻撃を受けて退路も断たれた。元の艦隊は、ベトナムの艦艇を追跡して白藤江(バクダン江)に突入したが、満潮だった潮が引き始めたため、元の艦船は座礁して動けなくなった。そこにベトナムの艦艇が攻め込み、両岸で待ち伏せていたベトナム軍も加わっての大激戦となった。艦船100隻が撃沈し、400隻が捕獲され、元軍兵士や将官の多くが水死したり、捕虜となった。(小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書 p.87)。モンゴル軍が敗れた1288年4月の「白藤江の戦い」である。

ジャワ島にあったシンガサリ王国に対して、元のクビライは1280年以来、何度か使者を送り、冊封を受けて朝貢するよう求めた。これに対してシンガサリ国王は、元の宗主権を認めるのを潔しとせず、正使として来航した使者の顔に刺青をして追放した。これに激怒したクビライは、1289年、討伐軍として2万の兵を500艘の船に乗せ、泉州から出発させた。 ところが、その間に、シンガサリ王国では反対勢力による政変が発生し、国王や高官の多くが殺害された。 そこへやってきたのが元の討伐軍で、王国内の旧勢力と新勢力の間の内戦に引き込まれる結果となった。元軍は、討伐すべき相手は旧勢力だと説得されて、旧勢力への攻撃に参加したが、旧勢力を戦闘で破ると今度は新勢力から逆に攻撃を受けた。1292年、戦闘で疲弊した元軍は、ろくに抵抗もせずに船に引き上げて撤退し、帰国を急いだという。このとき元軍の手を借りて支配権を確立したのが、のちにマレーシア半島にまで勢力を拡大するマジャパヒト(マジャパイト)王国である。

(続く)

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拡張覇権主義のチャイナの姿をその周縁部から覗いてみる。そこには抑圧された民族、消滅させられていく文化や歴史が垣間見える。

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