脱中華の東南アジア史 ⑤

        ~東南アジア4か国世界遺産の旅から考えたこと~

<「大河ドラマ」級の王朝物語はいくつもある>

「港市国家」の歴史からも分かるように、古くからこの地域に暮らす人々がいて、さまざまな経済活動を行い、独自の文化や技術を発展させ、住民を富と力で支配する実力者が出現し、やがて王国を作り、それらの権力者同士が互いに争い、支配地を拡大するごとに文化や宗教も伝わり、文明圏ともいうべき交易・文化ネットワークを作った。

飛び飛びに存在する「港市国家」の連合体から、やがて国王を中心に民族的なまとまりを持った王国が作られ、何代にもわたって存続する王朝が形作られた。シナ世界が、北方民族との激しい抗争に明け暮れ、天下分け目の戦国動乱の時代を何度も繰り返してきたのと同様に、東南アジアの地にも、異なる文化や言語をもった人たちがそれぞれの王朝のもとに結集し、互いに存亡をかけた戦闘を繰り広げてきた歴史があった。

それを雄弁に物語るのが、今回訪ねた世界遺産の歴史的建造物の数々だった。それらの巨大建造物が造られた経緯、その後にたどった王朝の運命や廃墟となるまでの歴史を「大河ドラマ」として描けば、一大歴史スペクトラムあるいは壮大な歴史サスペンスとして興味津々の面白い「歴史ドラマ」ができあがるのではないか。それは、中華王朝の欺瞞に満ちた歴史を描く中国政府公認の「謹製歴史ドラマ」や、朝鮮王朝のドロドロした人間模様を脚色まみれで描く「韓流宮廷ドラマ」と較べても、けして見劣りはしないはずだ。

「大河ドラマ」として格好の物語を提供してくれるのは、9世紀から15世紀まで続き、アンコール・ワットなどの巨大建築を残したクメール王朝(アンコール王国)かもしれない。クメール王朝は、802年ジャヤーヴァルマン2世が「世界皇帝」World Emperor、「帝国」Empireを名乗って建国した王朝だが、周辺の国々との戦争に明け暮れ、その支配地域は消長を繰り返した。国内では、国王の地位をめぐって王子たちの骨肉の争いがあったり、一族の暗殺や陰謀で地位を奪い合ったりと激しい跡目争いが繰り返された。国王が交代するごとに政治の中心地・首都の移転が繰り返され、代替わりと同時に前の国王がいた王宮が完全に破壊されたり、大規模な改修が行われたりすることもあった。

初代から数えて21代目の国王ジャヤーヴァルマン7世(在位1181~1220)の時、アンコール王国に攻め込んできたチャンパ王国を4年にわたる激戦のすえ撃退し、その支配地域はタイ東北部、ラオス、ベトナムの一部にも及ぶなど、最大領土を獲得した。王宮のアンコール・トム(「偉大な都市」の意味)が建設され、周辺には多くの寺院や病院など都市機能が整備された。また大規模な土木工事で貯水池や灌漑施設が整備され、水田の多毛作が可能になるなど国力は大いに高まった。

アンコール・ワットの周辺のジャングルには、今も1000か所にのぼる建造物が遺構や廃墟となって埋づもれている。歴代のアンコール国王は、国王の神格化した権威を高めるためにも、次々とヒンズー寺院を建築した。しかしジャヤーヴァルマン7世は大乗仏教を信奉し、上座部仏教を保護し、母親のための寺院タ・プロームなど多くの仏教寺院を建てた。面白いことに、アンコール王朝と敵対関係にあったチャンパ王国でもヒンズーの時代と仏教の時代が入り混じっていたが、権力を強化し、国力の増強をはかる必要のあるときにはヒンズー教が王族によって保護され、逆に、戦争に疲れ平和を願う時代には仏教が広まったという見方もある。

ジャヤーヴァルマン7世の事跡を描くだけで、「血湧き肉躍る」一大スペクトラムの歴史ドラマ、豪華絢爛の歴史絵巻きのストーリーができあがるのは間違いないと思う。

ところでアンコール・ワットがあるシェムリアップSiem Reapは「シャム(タイ)に勝利した地」という意味を持ち、時代は下がるが17世紀にクメール人がシャムのアユタヤ王朝の軍隊に勝利したことにちなんでいる。戦いの歴史を地名にも刻むお国柄なのだ。であるなら、こうした歴史ドラマが大受けするのは間違いない。

<巨大建造物を造ったエネルギーはどこから?>

いずれにしても、この地域に残る世界遺産の歴史的建造物を見ただけでも、それらが独自の宗教的世界観をもち、高度な文明と技術が発達していたことがわかる。その端的な姿こそ、バガン仏塔群(世界遺産未登録)であり、スコタイやアユタヤの仏教遺跡であり、アンコール・ワットなどクメール王朝の遺跡群だった。これらの遺跡群を見てまず考えるのは、これほどの巨大にして豪華絢爛な建造物を作り出すだけのエネルギーはどこから来たのかという疑問だ。レンガをひとつ一つ積み上げるだけでも何十年もの歳月が必要なはずで、それを成し遂げるだけの富、労働力としての民衆を結集させるだけの権威を備えた権力者がいて、巨大建造物を設計し、何十年もかけて完成させる指導力、まさに文明を一つの形にまとめる「構想力」とでも言うべきリーダーシップ、あるいは時代のエネルギーが必要なはずだった。それはとりもなおさず信仰が持つ力、宗教的なエネルギーだったのかもしれない。

これらの世界遺産を作ったそれぞれの王朝は、互いに攻めたり、滅ぼされたりといった関係でありながら、古くはいずれもインド文化あるいはヒンドゥー教の影響を受け、やがて上座部仏教を国教化するという共通の文化的な基盤を持っていた。各民族や各王朝は、互いに交易を通じて文化や技術を伝え合い、当初はインドのバラモン思想を中心にした政治制度、のちには上座部仏教を中心とした民衆統治システムを採用し、アンコール・トムなどに代表されるように、宗教的な権威を象徴する寺院と政治的な権力を象徴する王宮が一体となった巨大建造物、王都が各地に作られた。

権力者は、巨大建造物を作らせることができるだけの経済力とともに民衆をまとめて労働に従事させるだけの政治的権威や統治思想を確立していたことが分かる。権力者がアンコール・ワットのような絢爛豪華な巨大建造物を建造するだけの富と権威を蓄え、技術力と労働力を結集し、民衆の信仰の力を駆り立て、民族や王朝の姿をひとつの文明の形として残すことができた時代だった。

つまりは、権力者によって支配された民衆が巨大建造物の建設に自発的に参加し、過酷な労働にも従事したという裏には、支配される民衆が信仰や宗教的な信念という形で自発的に参加し、巨大建造物を造るという労苦にも信仰の喜びを感じていたという側面があったかもしれない。

古代シナにも万里の長城や秦の始皇帝の兵馬俑などの巨大遺構があり、奴隷制を駆使して民衆を過酷な労働に駆り立てた形跡を窺うことができるが、中国史には、民衆を動員する上でそのモチベーションとなる宗教的なエネルギー、あるいは民衆を動かす思想・哲学のようなものがあったようには見受けられない。

<中国に残る歴史遺産は地下にしかない>

世界遺産といえば、中国にある世界遺産もいくつか見てきたが、秦の始皇帝陵や兵馬俑坑、それに明の十三陵や敦煌・莫高窟にしても、みな地下にあったからかろうじて破壊を免れたものの、地上にあった建造物は故宮など比較的新しい時代のものは別にして、それ以前の地上建造物については見るべきものはほとんど残っていない。「万里の長城」やシルクロードの遺跡(玉門関や高昌故城など)にしても、崩壊するに任され、そのほとんどは沙漠に消えかけている。チベットのポタラ宮や麗江の街並み、風光明媚な九寨溝など自然遺産の多くは漢族以外の土地のものだ。

地下に隠された兵馬俑坑や明の十三稜、あるいは砂漠の中に取り残された敦煌・莫高窟やクチャのキジル千仏洞などは例外として、古い時代の寺院・伽藍の姿をそのまま残している建造物は中国にはほとんどない。「天平の甍」を思い浮かばせる大伽藍、宗教建築が見られるのは、日本の京都・奈良・鎌倉などを除くと、東南アジアの仏教遺跡だけということになる。中国の世界遺産に比べれば、アンコール・ワットにしてもボロブドールにしても熱帯の厳しい気候のなかで、過去の姿をしっかりと今に留めているのは立派なことだ。何よりいまだに信仰の対象となり、宗教施設として今も機能していることがすばらしい。バガンやアンコール・ワットでも、さらには廃墟同然のワット・プーでも、真剣に祈りをささげる信徒たちの姿があった。ヤンゴン最大の黄金の仏塔シュエダゴン・パゴダは、地元の人からは2600年前の仏陀入滅の直後に創設されたと信じられているが、ここを見学して驚いたのは、仏像の背中の輪、いわゆる「光背」が最新のLEDライトの電飾に変わり、色鮮やかに点滅していたことだった。その仏像の周りには熱心に手を合わせる人々の姿で埋まっていた。信仰の形は少しずつ変わっても、祈りをささげる人々の姿は途切れることなく連綿と続いてきたのである。残念ながら共産中国では考えられないことだ。

中国では世界遺産といえども、過去には破壊されるか、遺棄され、過去の姿を完全な形で残しているものはほとんどない。文字としての記録は残されても、歴史の営みを実感させる物的証拠は極端に少ない。歴史を重んじるといいながら、歴史を改ざんし捏造するのは中国人にはお手の物で、どんなに貴重な歴史遺産でも、タリバンやISと同様、破壊するのは平気だった。文化大革命当時、紅衛兵はチベット寺院を破壊しつくし、貴重な文物・文化財を持ち去って廃棄することに何の躊躇(ためらい)も抵抗もなかった。歴代皇帝は、生前から墓に財宝をかき集め、死後の世界のために残したが、そうした宝の山は盗掘の対象となり、西太后の墓はダイナマイトで破壊された。文化財を歴史や民族の財産として後世に残そうなどという観念はなく、とりあえず目の前の金儲けになりさえすれば、それでよかった。まことにこころ貧しき人々と言わざるをえない。

それにしても、自分の無知と不明をさらけ出して言うのだが、この東南アジア地域には、クメール王朝をはじめとして多くの王朝が群雄割拠し、勢力を争い、激しい攻防を繰り広げた歴史があったことを、今まで知らなかった。南シナ海やアンダマン海、マラッカ海峡、さらにメコン川やチャオプラヤ川などに面してできた数多くの港市国家が手を結んで海上の交易ルートを作り、西はインドやアラビア半島、東は台湾や日本とをつなぐ中継貿易を担ったほか、人と情報の活発な交流を繰り返し、独自の豊かな文化圏を形作ったということを知らなかった。

おそらく高校の世界史の教科書や授業でも、ほとんど無視されるか、触れられたとしてもアンコール・ワットやアユタヤ王朝、それに山田長政の名前などが断片的に取り上げられただけかもしれない。正直に言って、東南アジア各国の民族と王朝の歴史を、古代から現代までひとまとめにし、分かりやすくかつ面白く、ダイナミックに解説してくれる研究者や書物にもめぐり合ったことがない。東南アジアを舞台にした各王朝や王国の変遷、歴代と国王や英雄の活躍に焦点を当てれば、それこそ「大河ドラマ」級の一大歴史スペクタルの大型番組などいくつでも制作できると信じている。別にテレビだけにこだわるわけではなく、解説書や歴史小説でもいいが、それらに活き活きとした材料を与えてくれる研究者の活躍と、それをもとに具体的な作品にまとめる作家や脚本家の活躍が俟たれるところだ。

周縁から中国を覗く

拡張覇権主義のチャイナの姿をその周縁部から覗いてみる。そこには抑圧された民族、消滅させられていく文化や歴史が垣間見える。

0コメント

  • 1000 / 1000