脱中華の東南アジア史 ②
~東南アジア4か国世界遺産の旅から考えたこと~
<中華圏でもインド圏でもない独自の文明史>
アジアの歴史を語るとき、圧倒的な文献の数とその記録量に圧されて、どうしても漢籍(漢文の史料)の記述、つまり中国側の記録に頼らざるを得ないことが多い。
われわれ日本人も、「後漢書」や「三国志・魏志倭人伝」など歴代王朝の史書に残る記述をもとに、邪馬台国や卑弥呼の存在など日本の古代史をあれこれと論じてきた。その発音の類似から「邪馬台国」は「ヤマト(大和)の国」、「卑弥呼」は「日の御子」あるいは「日嗣(ひつぎ)の御子」(天皇の位を継ぐ皇太子)にあたるのではないかといわれる。そうだとすると卑弥呼は女王ではなく、男子だった可能性もあるが(『渡部昇一の少年日本史』致知出版社 2017/4)、そもそも日本側には邪馬台国も卑弥呼も存在したという痕跡がないことから、「魏志倭人伝」は日本に来たこともない魏の史家(陳寿)の想像の産物にすぎないと断じる人もいる(田中英道『高天原は関東にあった 日本神話と考古学を再考する』勉誠出版)。それはともかく、漢籍に現われた記述は、「邪」や「卑」といった侮蔑的な漢字をあてるなど、明らかに自らは高みに立ち、周囲の国を「東夷」「倭国」などと蔑視し、睥睨する姿勢では一貫している。
自国の古代史を語るとき、中国側の記述に頼らなければならないのは、東南アジアの国々も同様で、ヨーロッパの歴史学者たちも、この地域の古代史を語るときには、中国の文献に出てくる地名・国名でもってしか語ることができない場合が多い。たとえばフランスの歴史学者Claude Jacquesと写真家Michael Freemanによる共著で、アンコール・ワットの解説書「ANCIENT ANGKOR」(River Books、Thailand 2003)は、かつてカンボジアにあった王国「扶南」(1~6世紀)や「真蠟」((550–802年)をFunan、Chenlaと現代中国語の発音表記のまま使っている。これらの王国は、「プレ(前)アンコール期」と呼ばれる時代にカンボジアやベトナム南部にかけて存在した古代国家だが、それらに関する文字の記録は、漢籍(「扶南異物志」、「真臘風土記」)にしか存在しない。
またベトナム中部にあった「林邑」などの国名や地名も漢籍にしか記録が残っていない。その結果、東南アジアの歴史、とりわけ古代史を振り返るときは、圧倒的な量の漢籍の記述に頼ることになり、どうしてもシナ世界中心の見方に偏りがちになる。
しかし、それが歴史の真実であるかどうかは、別問題だ。中華世界特有の「天下」観からすれば、とかく「中華文明」の徳が及ばず、その恩恵に浴することのない「化外の地」は、文字通り「蛮族」が住む周辺部として一段下に見ることになる。そこには「華夷秩序」という価値判断が働き、本来この地域にあった文明や民族の歴史に真剣に向き合うこともなかった。
さらにもっと大きな問題は、漢籍の記述や漢字の地名があることをもって、彼らがその土地を最初に発見した証拠だとし、領有権など自分たちの権利を主張する根拠にしていることだ。東シナ海の尖閣諸島の「釣魚島」(日本名魚釣島)や、南シナ海の海域を指すと主張する「漲海」や「万里石塘」などがそれに当たるが、最初に漢字の名前をつけ、その記録があるからといって、それだけでは、近代法に基づく領土の「発見」や「先占」の証拠にはならないことは明らかだ。そもそも「漲海」や「万里石塘」などという曖昧な表現が、現在のどこをどう指し示すのか、はっきりとした証明ができないことは彼ら自身が知っている。
いずれにしても無批判に漢籍の記述に頼ることは、彼らの論理に嵌ることでもある。だからこそ、自前の真実の歴史を取り戻すためには、「脱中華」が必要なのだ。
実は、東南アジアの独自の地理・歴史を学ぶことは、中国の覇権主義的拡張主義、とりわけ彼らの南シナ海への野心、軍事的進出に対抗する有効な手段となりえると考える。なにより中華世界とは異なる独自の文明圏として発展し、南シナ海を交易・交流の場として古くから活用してきたのは、他でもないインドシナ半島やインドネシア、フィリピンの島々の人々だった。つまり「自由で開かれたインド太平洋戦略」を昔から実践してきた人たちだった。
現在のASEAN諸国の人々は、そうした自分たち祖先が築いてきた歴史や文化、伝統に立ち返り、中国による南シナ海に関する不当な主張・圧力に対しては、一致団結して毅然とした態度で臨むべきだ。経済援助という札束にモノを言わせて、カンボジアやラオスをまるで属国扱いする中国に対しては、かつてアンコール・ワットに代表されるような絢爛豪華な文明を築き、タイ北部やマレーシア半島を含めてこの地域一帯を勢力下に置き大帝国を築いたクメール王朝の祖先に恥じぬよう、気骨のあるところを見せてほしいものだ、と思う。
ところで、表意文字である漢字は、言葉本来の「音phoneme」という要素には関わりなく、「意味」のみが容易に伝わる。そのため中国周辺では、漢字を使ったら最後、自分たちの言語が呑み込まれ、やがて失われるという憂き目に遭う周辺民族が多かった。突厥、契丹、女真、西夏などの民族は、漢字の使用を拒否して、突厥文字、契丹文字、女真文字、西夏文字など独自の文字を発明したが、ジワリジワリと浸透する「漢字のおそろしい力」に負けて、やがて姿を消し、民族自体も漢族の中に吸収されてしまった。(田中克彦『言語学者が語る漢字文明論』(講談社学術文庫 2017年)
現在のASEAN地域が、中華文明の影響圏からいかに離れていたかは、彼らが古代から使ってきた文字を見れば分かる。現在のベトナム北部にあった「大越国」が、漢字文化や儒教の影響を受けたほかは、ビルマ語、カンボジア語、タイ語、ラオス語の文字は、インドのブラーフミー文字の系譜に属する。ブラーフミー文字は約2300年前にインド最初の統一国家となったマウリヤ国のアショーカ王時代に生まれたもので、同じ系統にある文字を使う国々は、古代からインドの歴史文化の強い影響を受けたことが分かる。(岩崎育夫著「入門 東南アジア近現代史」講談社現代新書)
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